はてなブログに投稿する個人的見解によるはてな解明日記

完全に個人的な見解で「なぜ」を解明します。

緊迫の100分間「セッション」

 

最高です…Netflix様。最高という他ない。Netflix様が出てきてから世界が変わった気がする。人々は優しくなり、争いはなくなり、世界は安らぎで満ちている気がする。

 

 

無人島に何を持っていきますか?と聞かれたらNetflix様とその媒体とその媒体の可能性を最大限に引き出せる電化製品、家具その他とその可能性を更に最大限に引き出し限界突破させられる最強の家と答えようと思う。

 

 

ささやかな欲を言うならばコンビニ、スーパー、ホームセンター、ファッション関連その他モロモロのショッピングが可能な街の中にその家を構え、シクチョウソンという形で分けられたそれら集合体が1741個存在し、それらを統括するトドウフケン、更にその上には行政(内閣)、立法(国会)、司法(裁判所)というもので紛争や人々の生活の調和を図っていて欲しいと願う。

 

 


更にシェンロンが現れて願いを叶えてくれるとまで言うのであれば

「スーパーなNetflix

とだけ答え、困惑させたいと思う。

「スーパーなNetflix」………なんて甘美で誘致的な響きなんだ…………

 

 


ああ…

 

 

スーパーな……

 

 


Netflixとは………

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


ファーwwwwそんなもんあるかいなwwwwアルカイダwwwwwファーwwww


ということでNetflixのせいでブレイクタイム中にコーヒーを1日4、5杯は飲んでしまうために、頭がちょっとあれな方向に向かってしまっています、カフェイン中毒がちょっと心配です。
今回もNetflixで観直した映画「セッション」について書いていきます。

 

 

映画「セッションについて」

 

鬼バンマス・フレッチャーと主人公であるドラマー・ニーマンの物語です。
監督はデミアン・チャゼルさん、少し前に話題になった「ラ・ラ・ランド」と同監督で、どちらも監督と脚本を手がけています。

 

初見は映画館で観たのですが、非常に惹きこまれました。映画館で観ていると、大概の映画では中盤程度で一息つくような空気が流れます。しかしこの映画ではそんな空気が流れることもなく、およそ100分間の間ずっと緊迫した状態が続き、最後のシーンまで「集中させられ」ます。その緊迫感こそがこの映画の魅力となっています。

 

その緊迫感を生み出しているのが「鬼バンマスフレッチャー」と「それに怒られるニーマン」の二人であり、観客をこの映画に惹きこむ最大の要因となっています。
観客はニーマンを通し、フレッチャーの怖さと罵声に触れさせられ、「集中状態」を強制的に作り出されていきます。
そのためには怒る方、怒られる方の演技やキャラクター性、また臨場感を感じさせるシーンを撮るための技量が必要とされます。今回はその三つについて解釈をしていきます。

 


1.鬼バンマス「テレンス・フレッチャー」の怖さについて

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このブルドックのような肌のたるみ方をしているのがJ.Kシモンズ演じるフレッチャーさんです。この映画を見た後からこのシワのたるみ方からさえ、怒った時の顔が目に浮かびます。真顔がもう怖いし、笑っていてもいつでも怒る準備万端なような、そんな雰囲気を感じます。

 

 

顔はさておき、フレッチャーの凄まじい恐ろしさの秘訣は「切れ味鋭いセリフ」です。

 

「なぜやめたかに対する答えがゼンマイ式の猿か」

「お前か、漫画くん。」「お菓子は落ちてない、なぜ下を見る?」

「足手まといも限界だ、デブ野郎。音程より飯が大事か」

「お前はお涙頂戴男か?私が虹色に見えるか?」

「バカに電卓を持たせるとリモコンと思う」

などといったセリフが一息つく暇もなく出てきます。

私が個人的に好きなセリフは、「お前、民話の妖精にそっくりだな」です。

 

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 不遇な漫画くんことデブ野郎。彼はほとんどとばっちりでバンドから追放されます。

 

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 民話の妖精にそっくりなライアン君。

 

 

怒る時、「顔が近い」ことも挙げられます。迫力というのは近ければ近いほど力を増すことがよく分かる例です。

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まさに鬼気迫った顔です。
顔を背けていると顔を見ろと言われます。逃れることはできません。

 

以上の二点に加え、「怒鳴り声」という最凶の武器も備えた彼は魔界へ旅立つべきです。

声ホントでかい。 

 

2.ニーマンのひたむきな努力

ニーマンには友達がいません。友達を作るコミュ力があるとかないとかという問題ではなく、彼自身が友達をたくさん作ることより、孤独でも偉大なドラマーになることを選ぶと言っています。


その言葉の通り、どれだけフレッチャーに怒られようと挫折させられそうになろうと必死に努力を重ねます。映画の最大の見せ場の一つ、主奏者を決めるためのレッスンシーンの前では彼女に躊躇なく一方的な別れを宣告し、練習に没頭します。(とは言っても、未練がないわけではない様子も描かれます)そうした努力を重ね、主奏者となった彼は更なる困難を経て、最後のシーンへと繋がります。

 

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 なで肩で、ぼってりした唇が印象的なニーマン。頼りなさげな彼ですが劇中では凄まじい努力と執念を見せます。でも意外と肉厚な感じで力ありそう。

 

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 ニーマンがデートに誘う彼女。とっても可愛い彼女ですが、偉大なドラマーになりたいニーマンは後ほど無下に扱います。

 

 

3.映画の撮り方

各シーンごとに感じたのが「色の演出」と「光と影の使い方」が特徴的だという事です。人間の心理を突いているのか、たまたまそうなったのかはわかりませんが、フレッチャーの怒るシーンでは赤を基調としたシーン、ニーマンが落ち込んでいたりするシーンでは青を基調としたシーンと使い分けています。人間の、「赤は興奮させ」「青は落ち着かせる」色に対する心理を突くように撮っています。

 

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赤味を帯びたレッスン室。

レッスン室で怒っていることが多いので必然的に赤味は多めに。

 

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満身創痍なニーマン。空虚な雰囲気です。

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フレッチャーのレッスン室とは違い、締まりのないナッソーバンド。

 

全体的に色味が統一されていて、場面に重厚さを感じます。金属類の楽器も当然多く出てくるので光の情報量も多くなっています。

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レッスン室の様子。


更にはニーマンの余裕さを表すシーンでは違和感のない程度にスローモーションで再生されていたり、フレッチャーがニーマンに迫るシーンでは画面のブレをわざと起こすなど、カメラワークにもこだわりがみられます。

 

 

最後のシーン

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本当にこのラストの9分間は惹き込まれます。ここまでのフラストレーションを一気に爆発させたシーンとなっていて、その様子を観客は「待ってました」と言わんばかりに食い入るように見つめることになります。


このような今まで一方的にやられ、報われることがなかった主人公が逆襲するという様は本当にワクワクさせてくれます。この感覚は例えば「ロッキー」であったり、例えば「ショーシャンクの空に」であったり、例えば「ドラゴンボール」のような少年漫画にも当てはまるものがあります。

 

ただし、それらと全く違う点はこの最後のシーンでは二人の願いが同時に叶うという点です。一方は「偉大なドラマーになる事」他方は「偉大なミュージシャンを育てる事」二つの願いはこのシーンで結果的に一つに帰結します。

 

その相容れなかった両者が理解しあうようなこのシーンは見ている方もなんだか奇妙な満足感を得ることになります。個人的にはその満足感はこれまで全く消えなかった不安要素、いつ爆発するかわからなかったフレッチャーの怖さが解消され、ニーマンが認められたことで起こりうる満足感ではないかと思います。

 

ある意味ではサスペンス映画に通ずるような不安定な感覚を引き起こしてくれる、そんな映画です。観るときにはしっかりと時間を確保して一気にみたほうがいいかと思います。

 

闘争心を燃やしたい方に

「セッション」、非常にオススメです。