はてなブログに投稿する個人的見解によるはてな解明日記

完全に個人的な見解で「なぜ」を解明します。

生の実感「ファイト・クラブ」

 

 

 

*ネタバレ含みます

 

 

デヴィッド・フィンチャーエドワード・ノートンブラッド・ピット……何を隠そう、僕はこの三つの言葉に吸い寄せられていく性質を持っています。
その性質上、ファイト・クラブは避けて通ることはできない映画でした。何度吸い寄せられ、お金を巻き上げられようと、その引力に逆らう事は出来ませんでした。
TSUTAYAに行く度に「ちょっともう一回観ようかな…」「もう一枚借りなきゃ1枚百円にならないからな…」そう思ってとりあえず借りる映画として「レオン」と並びました。


しかし映画の重厚さはあまりにも凄まじく、そのボリューム感は1日の疲れを何倍にも膨れ上がらせるために結局見ないでお家に帰すことが数多くありました。「ダラス・バイヤーズ・クラブ」も無事にお家に帰って行きました。
そんなファイト・クラブさんもNetflix様のおかげでいつでも手元にあります。Netflixの安心感。おすすめです。電車で観る。重たい。これを観ること自体が濃厚なファイト。電車の中がファイト・クラブになります。おすすめです。

 

ノートンさんの魅力と言えば二面性の切り替えの鋭さだと思いますがこの映画ではそういった鋭さというよりも少しずつ変わっていく様を描いていますね、アメリカン・ヒストリーXみたいな感じでしょうか。個人的な好みで言えばデビュー作の「真実の行方」や偽の障害者を演じる「スコア」の時のような鋭さが好きですが、この時みたいなひょろひょろしてるサラリーマンも痩身なスタイルとよく合ってます。

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想像の世界にいる、セラピー中のノートンさん。この後ペンギンさんと出会います。


ブラピさんは演技スタイルも含め、全身を映すのが非常に様になりますね。ずっとかっこいいのでその「印象を崩さないという演技力」はすごいと思います。痛みに対する狂気じみた演技はとても印象的でした。

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ファイト・クラブ』とは

物質に支配され生きている感覚を得られない主人公(名前がないので「僕」とします)と、生きる悲劇な女マーラ・シンガー、そして自由奔放、型破りな男タイラー・ダーデンの3人をメインとした物語です。
その設定を清々しいほど無視した撮り方をしているのでどう考えても初見ではとてもわかりませんが(感づきはしますが、矛盾しすぎてて確証が得られません)
ぶっちゃけて言いますとタイラー・ダーデンは「僕」の生み出した理想像で彼らは同一人物です。
二重人格系の映画ではありますが全く別人として存在しているようにしているのが特徴的で、映画の中で彼らは同時に存在します。
この映画の見所と言えばこのタイラー・ダーデンのカリスマ性です。
「僕」はそれに巻き込まれていく形で物語は進行します。中盤で「僕」は「タイラーの言葉遣いが移った」と言いながらタイラーのように振る舞います。このように発言力や影響力があるのは「僕」ではなく終始タイラーであり、「僕」がそれに影響を受けタイラーに近づいていく様を描いています。今回はこのタイラー・ダーデンのカリスマ性について紹介していこうと思います。

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タイラー・ダーデンのカリスマ性』

その1.タイラー・ダーデンという名前
かなり主観的ですが、まず名前がかっこよすぎます。タイラー・ダーデンって!かなり独特で素敵な響きです。この響きも彼のカリスマ性に大きく貢献しています。彼の名前がマイケルだったら?トムだったら?個人的にはちょっとインパクトがないと思ってしまいます。五感のひとつでイメージに直結する音(名前)は非常に大事です。この点からすでに作者のこのキャラに対する愛着が伺えます。


その2.物語の核となるタイラーの最小限主義(ミニマリズム
人はどういう人に惹きつけられるのでしょうか?人それぞれの答えはありますが、万人に共通しているのは、人は自分と本質的に同じタイプの欲望を再現した人に惹きつけられるということです。
極端な例ですが、平和を望む人ならマザーテレサに、強さを望む人ならマイク・タイソンに、ポップスターに憧れる人ならマイケル・ジャクソンになど、自分のやりたいこと、なりたいものになっている人に惹きつけられます。そして自分自信がその願いを叶えられるならば、誰しもそうなりたい、そうしたいと願うでしょう。
この映画ではそれがもっとわかりやすく、身近に描かれています。最小限主義であるタイラーは生きている実感を得られない人々に対するカリスマ性を持ちます。
なぜなら彼はその人々の欲望、「生きている実感」を得ることがを出来ていて、さらに彼らにもそれを再現させることが出来るからです。その方法はシンプルで、「痛みと直面すること」によって成り立ちます。

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痛みの重要性を説くタイラーさん。

彼は「スタイル」の提唱者です。「こうやって生きることが本当の生きるってことだ」と、「必要なのは痛みと直面することだけだ」と提唱しています。
そして彼は物に囲まれ、社会に縛られ、生きている実感を得られずにいる人々に対して「ファイト・クラブ」を提供し、痛みを感じさせることによって同時に生きている実感を与えます。そこに必要なのは勝敗ではなく、一方的な暴力でもありません。必要なのは「痛み」だけであり、万人に共通する感覚です。その為、社会的な地位も物質の充足も関係ありません。必要なのは痛みを感じられる体だけ。これこそタイラーのスタイルとなる、「最小限主義」を支える最も重要な点です。


その3.徹底的に「スタイル」を貫いている
映画の中盤、いつもファイト・クラブが開催されるバーの地下倉庫にオーナーが訪ねてきます。「誰の許可を得ているんだ」と彼は言い、タイラーはボコ殴りにされます。しかし、ここで彼は決して反撃をしません。それどころか殴られながら狂ったように笑い出します。生を実感しているのです。

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このように非常に楽しそうです。

このシーンから彼はファイト・クラブの中で尊敬を集め、リーダーの地位を確立し、メンバーに対して「宿題」を出し始めます。その「宿題」の内容は「痛みを感じること」か、「物質主義社会を否定すること」に関連しています。それから彼は毎週メンバーに宿題を出すようになり、内容は次第にエスカレートしていきます。最終的に宿題はメイヘム計画へつながり、物質主義社会とそれを担う経済社会をぶっ潰すためにクレジットカード会社を爆破する計画を立てます。以上のように、彼は必ず「痛み」か「物質主義社会の否定」を劇中で行っていきます。

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リーダーとしての地位を確立するシーン


ファイト・クラブ」の私自身の解釈
タイラーはなぜ?とよく問います。彼が必要としているのは生き残るための情報です。生存に関係ない言葉や物に価値を見出しません。彼には社会から独立した感性があります。
そこに私は原作者であるチャック・パラニュークや監督のデヴィッド・フィンチャーのメッセージ性を感じます。
彼らが伝えたいことは物質主義の否定ではなく、本当に求めていることが何なのかを探ることであると感じます。何に対して生きている実感を感じるのか?タイラーであれば「痛み」でありましたが、それは人によって様々です。
現代社会では物が溢れているために本当に欲しいものではないものを求めてしまうことがあります。それは企業の売り文句であったり、周りの人々による影響であったりと色々な形で意思に反したことが起こりうるためです。
劇中の中で主人公の「僕」は会社の中で上司との自作自演乱闘事件を起こす際にこう思います。「この男が疑問にも思わずやってきたこと、それが悪を生んできた」と。
何かを売る側は本当に色々な策略を立てて製品を売ろうとします。それは資本主義社会においては必要不可欠なものですがしかし、それのせいで自分の人生をコントロールされていいのでしょうか?個人的にはそうなりたくはありません。
自分が何を求めているのか。自分の中の感覚を探り、本当に欲しいものを手に入れ、生きていることを実感しようというメッセージが、この映画には詰まっているように思います。


ファイトクラブは考えれば考えるほど面白い作品です。しかし、どうしても解けない謎がマーラ・シンガーの存在、それに「僕」が彼女を好きだと感じ始める理由です。タイラーがマーラを抱くのは「どん底まで落ちる女だから」ですが、「僕」はタイラーが自分自身であると気づくまでは彼女に嫌悪感をあらわにしています。しかし、その事実を知った直後から彼女を愛し始めます。ここがよくわかりませんでした。どん底まで一緒に落ちたいと思ったからなのか、彼女が「僕」のネガティブな部分を現しているからなのか、いくつか考えられる理由はありますが、確かとできるだけのセリフやシーンが見つかりませんでした。個人的にまた私が見直す時にはその謎を解くべくまた観ようと思います。

ルールその8.『ファイト・クラブに初めて参加したものは、必ずファイトしなければならない』

これは私たち鑑賞者に向けたメッセージかもしれません。